2017年02月16日
リラックス蛙と、直立の起立蛙と、畏まり蛙―三種三様の蛙たち(善楽寺探訪2)
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
今日は、さぬき市大川町の『善楽寺(ぜんらくじ)』を引き続きご紹介します。
善楽寺は、真宗興正派のお寺。
大川町富田の地区(昔は富田郷と呼んだ)の真宗では一番古いお寺です。
ご住職のお話によると、開基は、室町時代の終わり頃(享禄3年)。約500年弱前だそうです。
現在の本堂は、明和元年(1764年)に建立された建物で、今年でちょうど253年!!
昨日は、善楽寺の屋根や瓦などをご紹介しました☆

今日は、本堂の向拝部分の3つの蟇股をご紹介します。
蟇股は、奈良時代から存在して、時代を経るにしたがって、装飾が多様になり、形も変化しているので時代を読み解くのにも使われます。
善楽寺さんで見た、3つの蟇股、とっても面白いんです(*‘ω‘ *)♪
本堂正面の虹梁の中央にある蟇股↓

蟇股の脚の部分(カエルが足を広げていると思って見てください。左右にぴろ~んと伸びている部分が、蟇股の脚と呼ばれる部分です)が、
横に広がって伸びています。だいぶリラックスした状態のカエルさん。
このリラックス蛙の脚の形は、室町時代以降に出てきて、江戸時代中期以降に多く見られます。
脚の上部の耳のように外にピョンと出ている部分は、「肩」と呼ばれます。肩の部分と、脚の先は雲の紋様。
脚の内部は、シンプルな透かし彫りです。
そして、上の蟇股の両サイドにある蟇股がこちら↓

キタ━(゚∀゚)━!
この蟇股を見た瞬間、私の興奮度が急上昇☆
この蟇股の形状、元祖蟇股の形状から蟇股への偏移を彷彿とさせるものなんです!
蟇股は、そもそも上下の水平な木材を斗と一体となって支える為の構造材だったんです。
その元祖蟇股は、「人字形割束」という文字通り、『人」の字の形をした束と思われます。
(別の見解もあるので、あくまで私の見解です。)
ここからは、ちょっと分かりづらいので、お粗末ながらスケッチで。

一番左のものが、人字形割束です。
法隆寺金堂の高欄部分に見られます。法隆寺では、高欄以外の部分に一番右の蟇股も見られます。
法隆寺が火災にあった後、奈良時代初期に再建された際の影響だと思います。
中央のものは、束と併用された蟇股で、とても珍しいもの。唐招提寺の講堂に見られます。
そして、奈良時代一般的だったのが、一番右の初期蟇股です。
この頃は、まだ構造材としての役割が大きかった蟇股は、装飾性が乏しく、カエルっぽくありません。
平安時代後期になると、カエルに似た形になってきます。
・・・いっぱい、話がそれてしまう(;´∀`)
善楽寺さんの蟇股、この人字形割束に似てませんか?!
人字形割束とは、構成が違うのですが、蟇股と束の中間のような形状。
そして、装飾も抑えたシンプルな形。
そしてそして、リラックス蛙と真反対の、起立!状態の脚☆
時代的に見ると、善楽寺さんの創建時の蟇股の発展の逆を行ってる感じなんです。
なんと!面白い!!
そして、もう一つの蟇股↓

この蟇股は、向拝の柱と本殿の柱の間の虹梁部分です。(さっきの虹梁と直角の位置にあるもの)
こちらの蟇股は、畏まってる脚。
最初にご紹介した蟇股に比べて、脚の広がりが少ないですね。
これは、江戸初期までの蟇股に多い形で、室町時代に多く見られます。
こちらも蟇股も彫刻がシンプル☆
ちなみに、写真を見返していて気づいたんですが、この写真で左右の位置にある肘木も面白い特徴が!
写真左手の肘木は、和様の特徴が見られるんですが、左側は、禅宗様の特徴が見られるんです。
お寺が建立された明和元年は、江戸時代後期に当たりますが、こちらのお寺は、その頃の蟇股に比べてかなり古い蟇股の手法を取り入れていました。
大工さんが、かなりの旧建築オタクだったんでしょうか。
それとも、他で使われていた旧建築の材を転用して作ったのでしょうか。
ムムム、かなり面白い歴史物語がありそうな建物です☆
次回は、本堂内部をレポートします(*'ω'*)
************************
古民家再生と築40年以上の木造住宅改修・設計専門店
工事も頼める設計屋さん
㈲谷野設計
さぬき市大川町富田西2911-1
0879-43-6807
info@tanino-sekkei.co.jp
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
今日は、さぬき市大川町の『善楽寺(ぜんらくじ)』を引き続きご紹介します。
善楽寺は、真宗興正派のお寺。
大川町富田の地区(昔は富田郷と呼んだ)の真宗では一番古いお寺です。
ご住職のお話によると、開基は、室町時代の終わり頃(享禄3年)。約500年弱前だそうです。
現在の本堂は、明和元年(1764年)に建立された建物で、今年でちょうど253年!!
昨日は、善楽寺の屋根や瓦などをご紹介しました☆
今日は、本堂の向拝部分の3つの蟇股をご紹介します。
蟇股は、奈良時代から存在して、時代を経るにしたがって、装飾が多様になり、形も変化しているので時代を読み解くのにも使われます。
善楽寺さんで見た、3つの蟇股、とっても面白いんです(*‘ω‘ *)♪
本堂正面の虹梁の中央にある蟇股↓
蟇股の脚の部分(カエルが足を広げていると思って見てください。左右にぴろ~んと伸びている部分が、蟇股の脚と呼ばれる部分です)が、
横に広がって伸びています。だいぶリラックスした状態のカエルさん。
このリラックス蛙の脚の形は、室町時代以降に出てきて、江戸時代中期以降に多く見られます。
脚の上部の耳のように外にピョンと出ている部分は、「肩」と呼ばれます。肩の部分と、脚の先は雲の紋様。
脚の内部は、シンプルな透かし彫りです。
そして、上の蟇股の両サイドにある蟇股がこちら↓
キタ━(゚∀゚)━!
この蟇股を見た瞬間、私の興奮度が急上昇☆
この蟇股の形状、元祖蟇股の形状から蟇股への偏移を彷彿とさせるものなんです!
蟇股は、そもそも上下の水平な木材を斗と一体となって支える為の構造材だったんです。
その元祖蟇股は、「人字形割束」という文字通り、『人」の字の形をした束と思われます。
(別の見解もあるので、あくまで私の見解です。)
ここからは、ちょっと分かりづらいので、お粗末ながらスケッチで。
一番左のものが、人字形割束です。
法隆寺金堂の高欄部分に見られます。法隆寺では、高欄以外の部分に一番右の蟇股も見られます。
法隆寺が火災にあった後、奈良時代初期に再建された際の影響だと思います。
中央のものは、束と併用された蟇股で、とても珍しいもの。唐招提寺の講堂に見られます。
そして、奈良時代一般的だったのが、一番右の初期蟇股です。
この頃は、まだ構造材としての役割が大きかった蟇股は、装飾性が乏しく、カエルっぽくありません。
平安時代後期になると、カエルに似た形になってきます。
・・・いっぱい、話がそれてしまう(;´∀`)
善楽寺さんの蟇股、この人字形割束に似てませんか?!
人字形割束とは、構成が違うのですが、蟇股と束の中間のような形状。
そして、装飾も抑えたシンプルな形。
そしてそして、リラックス蛙と真反対の、起立!状態の脚☆
時代的に見ると、善楽寺さんの創建時の蟇股の発展の逆を行ってる感じなんです。
なんと!面白い!!
そして、もう一つの蟇股↓
この蟇股は、向拝の柱と本殿の柱の間の虹梁部分です。(さっきの虹梁と直角の位置にあるもの)
こちらの蟇股は、畏まってる脚。
最初にご紹介した蟇股に比べて、脚の広がりが少ないですね。
これは、江戸初期までの蟇股に多い形で、室町時代に多く見られます。
こちらも蟇股も彫刻がシンプル☆
ちなみに、写真を見返していて気づいたんですが、この写真で左右の位置にある肘木も面白い特徴が!
写真左手の肘木は、和様の特徴が見られるんですが、左側は、禅宗様の特徴が見られるんです。
お寺が建立された明和元年は、江戸時代後期に当たりますが、こちらのお寺は、その頃の蟇股に比べてかなり古い蟇股の手法を取り入れていました。
大工さんが、かなりの旧建築オタクだったんでしょうか。
それとも、他で使われていた旧建築の材を転用して作ったのでしょうか。
ムムム、かなり面白い歴史物語がありそうな建物です☆
次回は、本堂内部をレポートします(*'ω'*)
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2017年02月07日
礼を重んじる日本の風習とサムライが身を守るため?!畳の縁を踏んじゃダメな訳
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
昨日は、耐震性に対しての弊社の想いを書きました。
まだ、耐震診断や耐震改修など、悩んでいる人がいたら是非補助金があることも伝えてあげてください。
今日は、畳縁(たたみべり)について書きたいと思います。
畳縁のカタログが届いたときにも少し触れましたが、今は、畳縁にも沢山の種類があって、和室のアクセントとして取り入れるのもオシャレです☆
自由に畳縁を選べるというのは、昔の人からしたら、とても羨ましいことかもしれません。
「畳の縁を踏んだらダメ」と聞いたことがある方は多いと思います。
畳の生活が当たり前だったころは、家庭で教わったりしましたが、フローリングの家が多くなった現在は知らない方もいるかもしれませんね。
じゃあ、なんで畳の縁を踏んだらいけないの?
というと、畳の縁が自由に選べなかった事とも関係があります。
平安時代、畳(部屋の一部に置く形の置き畳)を使えたのは、身分の高い貴族でした。
貴族の中でも身分の階級があったので、畳の縁は身分を表すものとしての意味もありました。
着るものの色などが身分ごとに決められていたのと同じですね。
平安貴族が、いかに身分にこだわっていたかが良く分かります。
「堤中納言物語」の中には、「高麗はし」「錦はし」「紫はし」と畳縁のことが書かれています。
縁を「はし」と呼んでいました。
書院造によって畳が武家に普及すると、畳縁の使用が制限されます。
「海人藻芥(あまのもくず)」に身分や位ごとに書かれています。
天皇や上皇、神仏には「繧繝縁(うんげんべり)」
カラフルな縞に紋様が入ったものです。

繧繝縁(うんげんべり)、身近なところだと雛飾りに使われているのが一番分かりやすいかもしれません。
お雛さんの座っている畳の縁が繧繝縁です。

親王や大臣には「雲や菊の大紋」か「大紋高麗縁(だいもんこうらいべり)」
高麗縁は、白と黒で編んだ織物です。

公卿は「小紋高麗縁(こもんこうらいべり)」

五位以上は「柴端」

六位侍は「黄端」

など決められていました。
また、家紋を入れた「紋縁」の畳みを使用する寺社・仏閣や武家が表れ、畳縁は「家・家系」を象徴するものとなります。
畳の縁を踏んではいけないというのは、そういった格式を重んじる日本社会から出来た風習です。
身分やその家(家系)を表す畳縁を踏むことは、無礼とされてきました。
植物や生き物をモチーフにした模様も多く、生き物を踏む付けるのは良くないという教えでもあったようです。
礼を大切にする日本人の思いやりの心から生まれたんですね。
余談ですが、武士にとって、畳縁を踏むことは床下に潜む敵に場所を知らせてしまうから危険!というサムライの知恵でもあったようです。

畳縁の材料には、麻や木綿、絹、合成繊維、あまり知られていないものに本革などもあります。
畳縁を踏まないということは、畳の構造的にも理に適っていたんです。
畳縁に使われる材料は、植物由来の染料で染められていたため、縁を踏むと擦れて傷んだり、歪みの原因にもなりました。
畳の歴史でも書きましたが、畳が一般庶民にも普及して当たり前に使われるようになったのは明治以降。
貴重品であった畳を長く使えるように大切にしていたことの表れでもあります。
現在でも、社寺や書院、床の間では小紋高麗縁を使ったり、格式を重んじる家では家紋の入った畳縁が使われたりします。
畳の敷き方も、畳縁の材料や柄も自由に選べる今、無限大の和室コーディネイトを楽しんで欲しいです☆
************************
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さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
昨日は、耐震性に対しての弊社の想いを書きました。
まだ、耐震診断や耐震改修など、悩んでいる人がいたら是非補助金があることも伝えてあげてください。
今日は、畳縁(たたみべり)について書きたいと思います。
畳縁のカタログが届いたときにも少し触れましたが、今は、畳縁にも沢山の種類があって、和室のアクセントとして取り入れるのもオシャレです☆
自由に畳縁を選べるというのは、昔の人からしたら、とても羨ましいことかもしれません。
「畳の縁を踏んだらダメ」と聞いたことがある方は多いと思います。
畳の生活が当たり前だったころは、家庭で教わったりしましたが、フローリングの家が多くなった現在は知らない方もいるかもしれませんね。
じゃあ、なんで畳の縁を踏んだらいけないの?
というと、畳の縁が自由に選べなかった事とも関係があります。
平安時代、畳(部屋の一部に置く形の置き畳)を使えたのは、身分の高い貴族でした。
貴族の中でも身分の階級があったので、畳の縁は身分を表すものとしての意味もありました。
着るものの色などが身分ごとに決められていたのと同じですね。
平安貴族が、いかに身分にこだわっていたかが良く分かります。
「堤中納言物語」の中には、「高麗はし」「錦はし」「紫はし」と畳縁のことが書かれています。
縁を「はし」と呼んでいました。
書院造によって畳が武家に普及すると、畳縁の使用が制限されます。
「海人藻芥(あまのもくず)」に身分や位ごとに書かれています。
天皇や上皇、神仏には「繧繝縁(うんげんべり)」
カラフルな縞に紋様が入ったものです。
繧繝縁(うんげんべり)、身近なところだと雛飾りに使われているのが一番分かりやすいかもしれません。
お雛さんの座っている畳の縁が繧繝縁です。

親王や大臣には「雲や菊の大紋」か「大紋高麗縁(だいもんこうらいべり)」
高麗縁は、白と黒で編んだ織物です。

公卿は「小紋高麗縁(こもんこうらいべり)」

五位以上は「柴端」

六位侍は「黄端」

など決められていました。
また、家紋を入れた「紋縁」の畳みを使用する寺社・仏閣や武家が表れ、畳縁は「家・家系」を象徴するものとなります。
畳の縁を踏んではいけないというのは、そういった格式を重んじる日本社会から出来た風習です。
身分やその家(家系)を表す畳縁を踏むことは、無礼とされてきました。
植物や生き物をモチーフにした模様も多く、生き物を踏む付けるのは良くないという教えでもあったようです。
礼を大切にする日本人の思いやりの心から生まれたんですね。
余談ですが、武士にとって、畳縁を踏むことは床下に潜む敵に場所を知らせてしまうから危険!というサムライの知恵でもあったようです。
畳縁の材料には、麻や木綿、絹、合成繊維、あまり知られていないものに本革などもあります。
畳縁を踏まないということは、畳の構造的にも理に適っていたんです。
畳縁に使われる材料は、植物由来の染料で染められていたため、縁を踏むと擦れて傷んだり、歪みの原因にもなりました。
畳の歴史でも書きましたが、畳が一般庶民にも普及して当たり前に使われるようになったのは明治以降。
貴重品であった畳を長く使えるように大切にしていたことの表れでもあります。
現在でも、社寺や書院、床の間では小紋高麗縁を使ったり、格式を重んじる家では家紋の入った畳縁が使われたりします。
畳の敷き方も、畳縁の材料や柄も自由に選べる今、無限大の和室コーディネイトを楽しんで欲しいです☆
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2017年02月03日
お寺と住宅では畳の敷き方が違うーその訳は?日本人の感性に脱帽
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
昨日は、大阪に勉強会に行っていました。
母の誕生日でもあったので、帰りに花を買って帰りプレゼントしたら、とても喜んでくれて、ホッコリ(*‘ω‘ *)
前回は、古くて新しい畳の歴史について書きました。
今日は、畳の敷き方についてご紹介します。
「畳敷様(たたみじきよう)」という言葉をご存知ですか?
畳の敷き方にも様式があるんです。
現在のようにフローリングが普及する前、畳の和室がほとんどだった頃には、一般の家庭でも畳を敷き替える風習がありました。
「畳敷様」とは、畳を敷き替える時の社会的な慣習のことです。
法隆寺の工匠(こうしょう)・平政隆(たいらまさたか)が記した「『愚子見記(ぐしけんき)』という建築に関わる技術書に使い分けの仕方が記されています。
この「畳敷様」という慣習が出来たのは、江戸時代。
婚礼や葬儀も家で行うことが普通だったので、祝い事と不幸の時を区別する際に、畳の敷き方を変えていました。


婚礼の時は「祝儀式(しゅうぎじき)」、不幸の時は「不祝儀敷(ぶしゅうぎじき)」と使い分けていたんです。
じゃあ、普段はどうしていたの?というと、
江戸時代に町屋や庄屋に畳が広まったといっても、まだ畳は貴重品。
町屋や庄屋では、畳は常に敷いておくものではなく、普段は重ねて置いておき、状況に合わせて使用していました。
武家屋敷など身分の高い者の家では祝儀敷で敷かれていたと思われます。
現在は、畳を敷き替える風習はなくなりましたが、名残はあります。
現在一般家庭で見られる敷き方は「祝儀敷」、お寺の本堂や大きい和室などでは「不祝儀敷」が用いられます。
更に、茶道から生まれた敷き方もあって、伝統から培った知識を基に、職人は畳の敷き方によって呼び分けています。
畳の1枚が枕のように敷いてある敷き方を「枕敷(まくらじき)」

枕のように配置された1枚を「枕畳」と呼びます。
茶道から生まれた敷き方で、祝儀敷と同じように畳の角が合わないように敷いたものを「回し敷(まわしじき)」とか「追い回し敷き」と呼びます。

書院造などで敷かれる敷き方で、明治以降に不祝儀敷きとされた「四居敷(よついじき)」。
「芋敷き(いもじき)」とも呼ばれます。

ズレが起きにくい敷き方です。
縁側などに用いられる敷き方で、畳の縁を接して並べる敷き方を「縁敷(えんじき)」
歩きやすいように考えられた敷き方です。
どれにも属さないものを「乱敷(らんじき)」と呼びます。
自由な発想で畳を楽しむもので、最近のモダンな和室に多く用いられます。

この他にも、床(とこ)の前は、上座の畳縁を踏まないように床(とこ)と並行に敷く。
入口になる部分は、歩きやすいように入り口と並行に敷く。
といった畳の決まり事があります。
畳の敷き方にまで、生活の場面に合わせて気を配っていたなんて(´▽`)☆
日本人って素敵だなぁ~と感じます☆
次回は、勉強会で耐震診断と補助金の話題が出たので、耐震性に対しての想いを書きたいと思います。
************************
古民家再生と築40年以上の木造住宅改修・設計専門店
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お読みいただき、有難うございます。
昨日は、大阪に勉強会に行っていました。
母の誕生日でもあったので、帰りに花を買って帰りプレゼントしたら、とても喜んでくれて、ホッコリ(*‘ω‘ *)
前回は、古くて新しい畳の歴史について書きました。
今日は、畳の敷き方についてご紹介します。
「畳敷様(たたみじきよう)」という言葉をご存知ですか?
畳の敷き方にも様式があるんです。
現在のようにフローリングが普及する前、畳の和室がほとんどだった頃には、一般の家庭でも畳を敷き替える風習がありました。
「畳敷様」とは、畳を敷き替える時の社会的な慣習のことです。
法隆寺の工匠(こうしょう)・平政隆(たいらまさたか)が記した「『愚子見記(ぐしけんき)』という建築に関わる技術書に使い分けの仕方が記されています。
この「畳敷様」という慣習が出来たのは、江戸時代。
婚礼や葬儀も家で行うことが普通だったので、祝い事と不幸の時を区別する際に、畳の敷き方を変えていました。


婚礼の時は「祝儀式(しゅうぎじき)」、不幸の時は「不祝儀敷(ぶしゅうぎじき)」と使い分けていたんです。
じゃあ、普段はどうしていたの?というと、
江戸時代に町屋や庄屋に畳が広まったといっても、まだ畳は貴重品。
町屋や庄屋では、畳は常に敷いておくものではなく、普段は重ねて置いておき、状況に合わせて使用していました。
武家屋敷など身分の高い者の家では祝儀敷で敷かれていたと思われます。
現在は、畳を敷き替える風習はなくなりましたが、名残はあります。
現在一般家庭で見られる敷き方は「祝儀敷」、お寺の本堂や大きい和室などでは「不祝儀敷」が用いられます。
更に、茶道から生まれた敷き方もあって、伝統から培った知識を基に、職人は畳の敷き方によって呼び分けています。
畳の1枚が枕のように敷いてある敷き方を「枕敷(まくらじき)」

枕のように配置された1枚を「枕畳」と呼びます。
茶道から生まれた敷き方で、祝儀敷と同じように畳の角が合わないように敷いたものを「回し敷(まわしじき)」とか「追い回し敷き」と呼びます。

書院造などで敷かれる敷き方で、明治以降に不祝儀敷きとされた「四居敷(よついじき)」。
「芋敷き(いもじき)」とも呼ばれます。

ズレが起きにくい敷き方です。
縁側などに用いられる敷き方で、畳の縁を接して並べる敷き方を「縁敷(えんじき)」
歩きやすいように考えられた敷き方です。
どれにも属さないものを「乱敷(らんじき)」と呼びます。
自由な発想で畳を楽しむもので、最近のモダンな和室に多く用いられます。

この他にも、床(とこ)の前は、上座の畳縁を踏まないように床(とこ)と並行に敷く。
入口になる部分は、歩きやすいように入り口と並行に敷く。
といった畳の決まり事があります。
畳の敷き方にまで、生活の場面に合わせて気を配っていたなんて(´▽`)☆
日本人って素敵だなぁ~と感じます☆
次回は、勉強会で耐震診断と補助金の話題が出たので、耐震性に対しての想いを書きたいと思います。
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2017年02月01日
古くて新しい?!たたんで持ち運んだ畳―畳の歴史
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
事務所前の池に来た渡り鳥が、何組かに分かれて円を作ってクルクル回るように泳いでいました。
なんだか可愛い。
昨日は、畳の性能を書きましたが、今日は、意外と知られていない畳の歴史をご紹介します。
畳は、古くから稲作の盛んだった日本独自の床材です。
その畳の歴史は、とっても古く、でも意外と新しいんです。
なんだか矛盾してますが、畳の語源に遡りたいと思います☆

「畳」は、読み通り「たたむ」ことを意味していました。
たためたり、重ねたりできるものを意味し、敷物の総称として使われていました。
畳は、日本最古の歴史書『古事記』のなかにも出てきます。
荒波を鎮めるために弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海に入る際に、海に敷いたのが畳。

そこには、「菅畳八重(すがたたみやえ)」「皮畳八重(かわたたみやえ)」「絹畳八重(きぬたたみやえ)」と記述されています。
※八重(やえ)というのは、何重にも重ねたという意味で、「菅」は「すげ」、「皮」は「毛皮」のことです。
「〇畳」と表して、『〇(=素材)の敷物』という意味ですね。
やっぱり、歴史は古い!
次第に敷物の総称から「畳」が固有のものを表すようになっていきます。
現存する最古の畳は、「正倉院」にあります。
(正倉院の宝物は、保存状態が良い理由は、校倉造りではなくその保存の仕方にあったというのは、別記事でご紹介しています。)
その畳は、聖武天皇が使用したとされる「御床畳(ごしょうのたたみ)」。
「御床畳」は、木で出来た台に畳を敷いた元祖ベットです。

この畳は、マコモというイネ科の植物(写真)
で造った筵(むしろ)を芯材として、表にイ草、裏面に麻を使った筵(むしろ)で出来ています。
現在の畳みとほぼ変わらない畳の構造が既に出来ていたことが分かります。
平安時代になると、貴族の座具や寝具として、部分的に畳が使われるようになります。

因みに、畳を必要な時に運んで動かしていました。
貴族に代わって武家が勢力を持ちだした、鎌倉時代から室町時代にかけては、部屋の周囲に畳が敷かれるようになります。
室町時代末期には、室内全体に敷き詰められるようになり、現在の座敷の形の原型が出来上がります。
部屋全体に敷き詰めることを「畳敷(たたみじき)」と呼び、平安時代のように一部分に畳を用いることを「置畳(おきだたみ)」と区別するようになったのも、この頃です。
桃山時代から茶の発展と共に、数寄屋造りが出来てから畳の普及が加速します。
江戸時代には、「御畳奉行(おたたみぶぎょう)」という専門の役職まで出来るほど、畳は武家にとって重要なものでした。

江戸時代中期には町屋・商屋などの庶民にも畳が使用されるようになっていきます。
引っ越しなどで住居が変わる時は、畳は住む人がもとの家から持ち込むのが一般的だったようです。
やっぱり歴史が古い!
でも、実は江戸時代庶民に使用されるようになったといっても、身分による規制があったため、地方の庶民住宅や農村にまで畳が普及するのは明治時代になってからなんです。
意外ですよね。
なので、「畳」は日本の歴史の中では古いけれど、民俗史の中では新しいんです。
畳自体の構造はかなり昔に出来上がっていたのですが、その使い方や規格が住居形態や生活の変化で変わってきているんですね。
それを考えると、畳の使い方は、まだまだ未知数かもしれないなとワクワクします☆
次回は、畳の敷き方について書きたいと思います。
************************
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info@tanino-sekkei.co.jp
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
事務所前の池に来た渡り鳥が、何組かに分かれて円を作ってクルクル回るように泳いでいました。
なんだか可愛い。
昨日は、畳の性能を書きましたが、今日は、意外と知られていない畳の歴史をご紹介します。
畳は、古くから稲作の盛んだった日本独自の床材です。
その畳の歴史は、とっても古く、でも意外と新しいんです。
なんだか矛盾してますが、畳の語源に遡りたいと思います☆
「畳」は、読み通り「たたむ」ことを意味していました。
たためたり、重ねたりできるものを意味し、敷物の総称として使われていました。
畳は、日本最古の歴史書『古事記』のなかにも出てきます。
荒波を鎮めるために弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海に入る際に、海に敷いたのが畳。
そこには、「菅畳八重(すがたたみやえ)」「皮畳八重(かわたたみやえ)」「絹畳八重(きぬたたみやえ)」と記述されています。
※八重(やえ)というのは、何重にも重ねたという意味で、「菅」は「すげ」、「皮」は「毛皮」のことです。
「〇畳」と表して、『〇(=素材)の敷物』という意味ですね。
やっぱり、歴史は古い!
次第に敷物の総称から「畳」が固有のものを表すようになっていきます。
現存する最古の畳は、「正倉院」にあります。
(正倉院の宝物は、保存状態が良い理由は、校倉造りではなくその保存の仕方にあったというのは、別記事でご紹介しています。)
その畳は、聖武天皇が使用したとされる「御床畳(ごしょうのたたみ)」。
「御床畳」は、木で出来た台に畳を敷いた元祖ベットです。
この畳は、マコモというイネ科の植物(写真)

で造った筵(むしろ)を芯材として、表にイ草、裏面に麻を使った筵(むしろ)で出来ています。
現在の畳みとほぼ変わらない畳の構造が既に出来ていたことが分かります。
平安時代になると、貴族の座具や寝具として、部分的に畳が使われるようになります。
因みに、畳を必要な時に運んで動かしていました。
貴族に代わって武家が勢力を持ちだした、鎌倉時代から室町時代にかけては、部屋の周囲に畳が敷かれるようになります。
室町時代末期には、室内全体に敷き詰められるようになり、現在の座敷の形の原型が出来上がります。
部屋全体に敷き詰めることを「畳敷(たたみじき)」と呼び、平安時代のように一部分に畳を用いることを「置畳(おきだたみ)」と区別するようになったのも、この頃です。
桃山時代から茶の発展と共に、数寄屋造りが出来てから畳の普及が加速します。
江戸時代には、「御畳奉行(おたたみぶぎょう)」という専門の役職まで出来るほど、畳は武家にとって重要なものでした。
江戸時代中期には町屋・商屋などの庶民にも畳が使用されるようになっていきます。
引っ越しなどで住居が変わる時は、畳は住む人がもとの家から持ち込むのが一般的だったようです。
やっぱり歴史が古い!
でも、実は江戸時代庶民に使用されるようになったといっても、身分による規制があったため、地方の庶民住宅や農村にまで畳が普及するのは明治時代になってからなんです。
意外ですよね。
なので、「畳」は日本の歴史の中では古いけれど、民俗史の中では新しいんです。
畳自体の構造はかなり昔に出来上がっていたのですが、その使い方や規格が住居形態や生活の変化で変わってきているんですね。
それを考えると、畳の使い方は、まだまだ未知数かもしれないなとワクワクします☆
次回は、畳の敷き方について書きたいと思います。
************************
古民家再生と築40年以上の木造住宅改修・設計専門店
工事も頼める設計屋さん
㈲谷野設計
さぬき市大川町富田西2911-1
0879-43-6807
info@tanino-sekkei.co.jp
2017年01月31日
日本独自の床材「畳」の持つパワー☆
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
昨日は、畳縁のカタログが届いたので、オシャレな畳縁の話を書きました☆
畳縁の歴史も、今度書きたいと思います(*'ω'*)
今日は、畳についての記事をまだ書いていなかった!ということで、畳についてちょこっとご紹介します。
畳は、日本人の住まいの歴史にはとっても深く関係しているので、一記事では書ききれないことが沢山あります。
なので、今日は、畳の性能についてに絞ってご紹介したいと思います。

畳は、畳床(たたみどこ)という畳の台になるものに、畳表(たたみおもて)という表装に使う敷物をかぶせて縁を付けて出来ます。
畳は、「高温多湿」の日本の風土に適した床材の一つです。
畳床に使われる藁も、畳表に使われる藺草(いぐさ)も中空のストローのような構造のため、
弾力性、断熱性、保温性に優れ、日本の元祖・断熱材と言ってもいいものです。
適度に水分を吸収して、乾燥時に吐き出すので、湿度調整の機能も持っています。
更には、遮音性・防音性、脱臭効果もあり、畳の香りは癒しの効果もあるという研究結果も出ています。
畳を歩く感触や、畳の香りなど、「畳って癒される」という人も多いと思います。
でも現在は、ダニやカビの温床となるといわれ、畳に対してマイナスのイメージを持っている方も多いよう。。。
実は、現代の高気密住宅と、開放的な古い木造では、結果に差が出るんです。
現代の高気密住宅では、畳の持つ保湿性能の高さが、逆にダニやカビの生育条件に適した環境を生み出してしまいます。
高気密の住宅自体が、気候の異なる海外で育った建築の考え方が基盤となっているため、畳の持つ性能が過度な性能になってしまうんですね。。
一方、古い木造住宅(日本の伝統的な建築)は、開放的な造りで、風通しの良い住宅であるため、温床になるほどの湿度を畳が有しないんです。ただし、掃除が行き届いていないと、ダニはエサを求めて寄ってきます。
高気密住宅で畳を使用する場合は、室内だけでなく、床下の換気や湿度の管理の設計も大切です。
畳の持つ高い性能を効果的に発揮させるように設計することがポイント。
最近では、イ草畳だけでなく、和紙をこよりにして編んだ畳もあり人気です。
防水加工もしてあるので、液体をこぼしても安心。
現在の高気密住宅でも、カビが発生しにくいのも安心です。
日本独自の床材「畳」の持つパワー、海外の方にとってもとても魅力的だそうです。
日本の中でも、再度見直されたら良いなと思います。
次回は、畳の歴史をご紹介します☆
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お読みいただき、有難うございます。
昨日は、畳縁のカタログが届いたので、オシャレな畳縁の話を書きました☆
畳縁の歴史も、今度書きたいと思います(*'ω'*)
今日は、畳についての記事をまだ書いていなかった!ということで、畳についてちょこっとご紹介します。
畳は、日本人の住まいの歴史にはとっても深く関係しているので、一記事では書ききれないことが沢山あります。
なので、今日は、畳の性能についてに絞ってご紹介したいと思います。
畳は、畳床(たたみどこ)という畳の台になるものに、畳表(たたみおもて)という表装に使う敷物をかぶせて縁を付けて出来ます。
畳は、「高温多湿」の日本の風土に適した床材の一つです。
畳床に使われる藁も、畳表に使われる藺草(いぐさ)も中空のストローのような構造のため、
弾力性、断熱性、保温性に優れ、日本の元祖・断熱材と言ってもいいものです。
適度に水分を吸収して、乾燥時に吐き出すので、湿度調整の機能も持っています。
更には、遮音性・防音性、脱臭効果もあり、畳の香りは癒しの効果もあるという研究結果も出ています。
畳を歩く感触や、畳の香りなど、「畳って癒される」という人も多いと思います。
でも現在は、ダニやカビの温床となるといわれ、畳に対してマイナスのイメージを持っている方も多いよう。。。
実は、現代の高気密住宅と、開放的な古い木造では、結果に差が出るんです。
現代の高気密住宅では、畳の持つ保湿性能の高さが、逆にダニやカビの生育条件に適した環境を生み出してしまいます。
高気密の住宅自体が、気候の異なる海外で育った建築の考え方が基盤となっているため、畳の持つ性能が過度な性能になってしまうんですね。。
一方、古い木造住宅(日本の伝統的な建築)は、開放的な造りで、風通しの良い住宅であるため、温床になるほどの湿度を畳が有しないんです。ただし、掃除が行き届いていないと、ダニはエサを求めて寄ってきます。
高気密住宅で畳を使用する場合は、室内だけでなく、床下の換気や湿度の管理の設計も大切です。
畳の持つ高い性能を効果的に発揮させるように設計することがポイント。
最近では、イ草畳だけでなく、和紙をこよりにして編んだ畳もあり人気です。
防水加工もしてあるので、液体をこぼしても安心。
現在の高気密住宅でも、カビが発生しにくいのも安心です。
日本独自の床材「畳」の持つパワー、海外の方にとってもとても魅力的だそうです。
日本の中でも、再度見直されたら良いなと思います。
次回は、畳の歴史をご紹介します☆
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2017年01月25日
現役の大戸くんの一日を取材@高山
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
良いお天気ですね☆
和柄の切手が発売されるというのを教えてくれた近所の郵便局に切手を買いに行きました(´▽`)
切手の形も、扇型や巾着型があってかわいいです♪
使うのが楽しみです(^^♪
今日は、昔の民家の土間の出入りに使われていた「大戸(おおど)」をご紹介します☆
大戸というのは、名前の通り、大きな板戸です。

(写真の白く囲った部分全体が大戸)
大きくて、開け閉めするのが大変なので、通常は大戸に作られた「潜り戸(くぐりど)」から出入りします。
実際に、現役中の大戸を高山の古い街並みでは沢山見ることが出来ました☆
開き方は、襖と同じように片方に引く「片引き」と、ドアのように開く「開き戸」が一般的です。
他に、内部にはね上げて開くものもあり、蔀戸(しとみど)のように吊るした金具で止めるものもあります。
酒屋さんの出入り口で、跳ね上がっている大戸くん発見(#^.^#)

吊り金具で固定されている部分の写真です。
お店の出入り口ということは、現役?!なんと!!
大戸は、一つの扉で色んな表情があるんです!
これは見なくては!!
ということで、大戸の全ての表情を撮りたくて、昼・夜・早朝と時間を変えて町並み散策しました。
夜は、真っ暗で色黒の大戸くんはうまく写らなかったので、早朝に夜の表情も見てきました。

上の写真が、夜~活動を始める前の大戸。
潜り戸部分の戸締りのための板戸も閉まっています。
こちら建物は、大戸の潜り戸と別に、左側に別に潜り戸を設けてました。

寝起きの大戸↑

活動準備を始めた大戸↑
潜り戸には、板戸を開くと腰高障子(腰付き障子の腰の部分が高いものです)が組み込まれています。
写真のように、商家では障子に屋号や家印が書かれていたりします。
現在の「開店準備中」の表示と同じ役目をしているんです。

準備体操中の大戸↑
障子が開けられ、家の人が出たり入ったり。
そして、本格活動をした大戸くんは、全体が開くとパッと見では姿を消します。
一般の家では、大戸が全部開かれるのは、大きなものを出し入れするときくらいですが、お店の客用出入り口として使っている高山のお店では、毎日開けられているようでした。
今でも、大戸くんが大活躍しているのを見て、嬉しくなった散策でした(´▽`)
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良いお天気ですね☆
和柄の切手が発売されるというのを教えてくれた近所の郵便局に切手を買いに行きました(´▽`)
切手の形も、扇型や巾着型があってかわいいです♪
使うのが楽しみです(^^♪
今日は、昔の民家の土間の出入りに使われていた「大戸(おおど)」をご紹介します☆
大戸というのは、名前の通り、大きな板戸です。
(写真の白く囲った部分全体が大戸)
大きくて、開け閉めするのが大変なので、通常は大戸に作られた「潜り戸(くぐりど)」から出入りします。
実際に、現役中の大戸を高山の古い街並みでは沢山見ることが出来ました☆
開き方は、襖と同じように片方に引く「片引き」と、ドアのように開く「開き戸」が一般的です。
他に、内部にはね上げて開くものもあり、蔀戸(しとみど)のように吊るした金具で止めるものもあります。
酒屋さんの出入り口で、跳ね上がっている大戸くん発見(#^.^#)
吊り金具で固定されている部分の写真です。
お店の出入り口ということは、現役?!なんと!!
大戸は、一つの扉で色んな表情があるんです!
これは見なくては!!
ということで、大戸の全ての表情を撮りたくて、昼・夜・早朝と時間を変えて町並み散策しました。
夜は、真っ暗で色黒の大戸くんはうまく写らなかったので、早朝に夜の表情も見てきました。
上の写真が、夜~活動を始める前の大戸。
潜り戸部分の戸締りのための板戸も閉まっています。
こちら建物は、大戸の潜り戸と別に、左側に別に潜り戸を設けてました。
寝起きの大戸↑
活動準備を始めた大戸↑
潜り戸には、板戸を開くと腰高障子(腰付き障子の腰の部分が高いものです)が組み込まれています。
写真のように、商家では障子に屋号や家印が書かれていたりします。
現在の「開店準備中」の表示と同じ役目をしているんです。
準備体操中の大戸↑
障子が開けられ、家の人が出たり入ったり。
そして、本格活動をした大戸くんは、全体が開くとパッと見では姿を消します。
一般の家では、大戸が全部開かれるのは、大きなものを出し入れするときくらいですが、お店の客用出入り口として使っている高山のお店では、毎日開けられているようでした。
今でも、大戸くんが大活躍しているのを見て、嬉しくなった散策でした(´▽`)
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2017年01月20日
瓦版を読んで感想を頂きました☆頂いたメールにあった書院についてと書院造との違い
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
谷野設計では、毎月ご縁のあった方や、県東のお寺さんなどに、日々の出来事で感じたことなどのお便りを出しています。
昨年の11月から、お便りに寺社建築探訪記の瓦版も同封し始めました。
瓦版は、ブログ記事で人気のあるものを少しだけ詳しく書き足して紹介しています。
瓦版発行3回目は、牟礼のうどん本陣「山田屋」さんの床の間について書いた記事。
昨日、さぬき市内のお寺の住職から嬉しいメールを頂きました。
『今回の寺社建築探訪記に書いてあった書院について大変勉強になりました。今まで部屋全体を書院と思っていましたが、床の横にある開口部を書院ということを初めて知りました。また、違い棚を床脇と呼ぶことも知りませんでした。ありがとうございました。これからブログ拝見させていただきます。』
読んでいただけるだけでも嬉しいのに、感想を聞かせて頂けるなんて、この上ない幸せ(*‘ω‘ *)
有難うございます<(_ _)>
メールの内容にあった書院について、少し詳しくご紹介したいと思います。
今日は、よく混同される「書院」と「書院造」について、2つの違いを書きたいと思います。

「書院造り」というと、室町時代の文化の象徴として知られています。
「書院造」とは、建物の「造り」を表すもので、それまでの建具による間仕切りの無い「寝殿造り」と対比して、細かく建物を建具によって間仕切りしたものを言います。
その間仕切りした部屋の中で、中核となったのが、「書院」を取り入れた部屋だったので「書院造」と呼ばれるようになりました。
書院造りの書院で最古の遺構は、慈照寺銀閣(通称:銀閣寺)東求堂(とうぐどう)の同仁斎です。
「書院」とは、厳密にいうと読書や書き物をするための場所のことです。中国では「学問所」のことです。
この元来の読書や書き物をする場所(現在でいうところの書斎)としての「書院」は、平安時代後期にはあったと考えられます。
日本で最初に取り入れられたのは僧侶の「勧学所」としてでした。
「書院」の原型は、出窓状の出し文机で、『法然上人絵伝』にも、この出窓状の書院が描かれています。

イメージの画を描いてみましたが、絵心が足りない(;´∀`)
奥には、素敵な外の景色が広がっている想像をしてください(*'ω'*)
空間自体が勧学所として使用されていたのを考えると、先程の住職のメールにあった「部屋全体を書院と思っていた」というのは、お寺の本来の「書院」としては正しいのではないかと私は思っています。
平安時代後期に武士階級が権力を持ち始めると、地方の武家の家に「書院」が取り入れられるようになります。
平安時代の「貴族」の「寝殿造り」に対して、武士の「武家造り」と言います。
(ただ、武家造りに関しては、曖昧なところが多く、はっきりとした造りは分かっていません。)
後にこの武家造りが、「しつらい」を取り入れた書院造へと発展します。
「書院」本来の実用を離れて、座敷飾りの一部として取り入れられるようになった結果、現在のような書院になりました。

(説明の中で、座敷の成り立ちと書院の関連は割愛しています)
つまり、「書院造」は、建物全体の構成を表し、「書院」は、本来、書斎という場所を表します。
(書院については、現在では、床の間の形式上の書院のみを指すことが一般的です。)
書院には、その構法でいくつかの種類があります。
次回は、書院の種類について書きたいと思います。
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お読みいただき、有難うございます。
谷野設計では、毎月ご縁のあった方や、県東のお寺さんなどに、日々の出来事で感じたことなどのお便りを出しています。
昨年の11月から、お便りに寺社建築探訪記の瓦版も同封し始めました。
瓦版は、ブログ記事で人気のあるものを少しだけ詳しく書き足して紹介しています。
瓦版発行3回目は、牟礼のうどん本陣「山田屋」さんの床の間について書いた記事。
昨日、さぬき市内のお寺の住職から嬉しいメールを頂きました。
『今回の寺社建築探訪記に書いてあった書院について大変勉強になりました。今まで部屋全体を書院と思っていましたが、床の横にある開口部を書院ということを初めて知りました。また、違い棚を床脇と呼ぶことも知りませんでした。ありがとうございました。これからブログ拝見させていただきます。』
読んでいただけるだけでも嬉しいのに、感想を聞かせて頂けるなんて、この上ない幸せ(*‘ω‘ *)
有難うございます<(_ _)>
メールの内容にあった書院について、少し詳しくご紹介したいと思います。
今日は、よく混同される「書院」と「書院造」について、2つの違いを書きたいと思います。
「書院造り」というと、室町時代の文化の象徴として知られています。
「書院造」とは、建物の「造り」を表すもので、それまでの建具による間仕切りの無い「寝殿造り」と対比して、細かく建物を建具によって間仕切りしたものを言います。
その間仕切りした部屋の中で、中核となったのが、「書院」を取り入れた部屋だったので「書院造」と呼ばれるようになりました。
書院造りの書院で最古の遺構は、慈照寺銀閣(通称:銀閣寺)東求堂(とうぐどう)の同仁斎です。
「書院」とは、厳密にいうと読書や書き物をするための場所のことです。中国では「学問所」のことです。
この元来の読書や書き物をする場所(現在でいうところの書斎)としての「書院」は、平安時代後期にはあったと考えられます。
日本で最初に取り入れられたのは僧侶の「勧学所」としてでした。
「書院」の原型は、出窓状の出し文机で、『法然上人絵伝』にも、この出窓状の書院が描かれています。
イメージの画を描いてみましたが、絵心が足りない(;´∀`)
奥には、素敵な外の景色が広がっている想像をしてください(*'ω'*)
空間自体が勧学所として使用されていたのを考えると、先程の住職のメールにあった「部屋全体を書院と思っていた」というのは、お寺の本来の「書院」としては正しいのではないかと私は思っています。
平安時代後期に武士階級が権力を持ち始めると、地方の武家の家に「書院」が取り入れられるようになります。
平安時代の「貴族」の「寝殿造り」に対して、武士の「武家造り」と言います。
(ただ、武家造りに関しては、曖昧なところが多く、はっきりとした造りは分かっていません。)
後にこの武家造りが、「しつらい」を取り入れた書院造へと発展します。
「書院」本来の実用を離れて、座敷飾りの一部として取り入れられるようになった結果、現在のような書院になりました。
(説明の中で、座敷の成り立ちと書院の関連は割愛しています)
つまり、「書院造」は、建物全体の構成を表し、「書院」は、本来、書斎という場所を表します。
(書院については、現在では、床の間の形式上の書院のみを指すことが一般的です。)
書院には、その構法でいくつかの種類があります。
次回は、書院の種類について書きたいと思います。
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2017年01月17日
酉年に便乗☆家に関わる鳥たち特集 第三弾! シャチの祖先が鳥?!
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
前回、前々回の記事と、家に関わる鳥をご紹介してきました☆
今回も、酉年に便乗シリーズ!第三弾!
「シャチの祖先が鳥?!」
家の部分でシャチといえば、屋根の鬼瓦の後ろ、棟の上にいます。
「鯱(しゃち)」です。
現在では、「鯱鉾(しゃちほこ)」と一般に呼ばれますね。
(写真は、松山城)
鯱(しゃち)は、桃山時代から城郭に多く採用されました。
城に初めて鯱(しゃち)を設けたのは、「織田信長」とされています。
因みに、城の屋根に瓦を用いたのも織田信長が最初。
織田信長が安土城の天守に鯱(しゃち)を乗せて以降、天守には鯱を乗せるのが慣例になりました。
穴太衆の石垣もそうですが、当時の織田信長の影響力は絶大だったことが、建物の歴史からも分かりますね☆
鯱は、水に縁のあることから、防火の願いや、干ばつで苦しまないようにという願いが込められていました。
加えて、魔よけもあったと考えられています。
次第に、戦国の世では、古代の武器の「鉾(ほこ)」を逆さにしたような形という連想から「鯱鉾(しゃちほこ)」と呼ばれるようになります。
その鯱の基になったと考えられているのが、「鴟尾(しび)」です。
鴟は、前回お伝えした「鳶(とび)」と同じ、「とび」を意味します。
漢字そのものだと、「トビの尾」
(平城京大極殿復元:棟の上に鴟尾)
(平城京朱雀門復元:同上)
平城京跡地探訪は、こちらの記事でご紹介しています。
「鴟尾(しび)」は、中国から飛鳥時代に日本に上陸します。
中国でも「「鴟尾(しび)」という名前がついていたようです。
起源については、鳥をかたどったから、という説と、インドから中国に伝わった怪魚がもとになったという説があります。
奈良時代には、貴族が履いた沓(くつ)に似せた形が多くなり、「沓形(くつがた)」と史料にも記述されています。
(大極殿内部に展示されている鴟尾)
現存している最古のものは、奈良の唐招提寺金堂の宝蔵で見ることができます。
奈良時代の創建当時のものが、平成の大修理が行われるまで、屋根の棟西側に乗っていました。
(東側の「鴟尾(しび)」は、鎌倉時代に造られたとされています。こちらも宝蔵に有ります。)
鴟尾を沓(くつ)と見るか、鳥とみるか、怪魚と見るか、それぞれの見方で見え方が変わるのも面白いですね☆
************************
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さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
前回、前々回の記事と、家に関わる鳥をご紹介してきました☆
2017/01/11
2017/01/12
今回も、酉年に便乗シリーズ!第三弾!
「シャチの祖先が鳥?!」
家の部分でシャチといえば、屋根の鬼瓦の後ろ、棟の上にいます。
「鯱(しゃち)」です。
現在では、「鯱鉾(しゃちほこ)」と一般に呼ばれますね。
鯱(しゃち)は、桃山時代から城郭に多く採用されました。
城に初めて鯱(しゃち)を設けたのは、「織田信長」とされています。
因みに、城の屋根に瓦を用いたのも織田信長が最初。
織田信長が安土城の天守に鯱(しゃち)を乗せて以降、天守には鯱を乗せるのが慣例になりました。
穴太衆の石垣もそうですが、当時の織田信長の影響力は絶大だったことが、建物の歴史からも分かりますね☆
鯱は、水に縁のあることから、防火の願いや、干ばつで苦しまないようにという願いが込められていました。
加えて、魔よけもあったと考えられています。
次第に、戦国の世では、古代の武器の「鉾(ほこ)」を逆さにしたような形という連想から「鯱鉾(しゃちほこ)」と呼ばれるようになります。
その鯱の基になったと考えられているのが、「鴟尾(しび)」です。
鴟は、前回お伝えした「鳶(とび)」と同じ、「とび」を意味します。
漢字そのものだと、「トビの尾」
平城京跡地探訪は、こちらの記事でご紹介しています。
「鴟尾(しび)」は、中国から飛鳥時代に日本に上陸します。
中国でも「「鴟尾(しび)」という名前がついていたようです。
起源については、鳥をかたどったから、という説と、インドから中国に伝わった怪魚がもとになったという説があります。
奈良時代には、貴族が履いた沓(くつ)に似せた形が多くなり、「沓形(くつがた)」と史料にも記述されています。

現存している最古のものは、奈良の唐招提寺金堂の宝蔵で見ることができます。
奈良時代の創建当時のものが、平成の大修理が行われるまで、屋根の棟西側に乗っていました。
(東側の「鴟尾(しび)」は、鎌倉時代に造られたとされています。こちらも宝蔵に有ります。)
鴟尾を沓(くつ)と見るか、鳥とみるか、怪魚と見るか、それぞれの見方で見え方が変わるのも面白いですね☆
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2017年01月12日
酉年に便乗☆家に関わる鳥たち特集 第二弾!鳶(とび)職人 語源クイズ
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
前回の記事では、十二支の酉と、鶏についてと、家に関わる鳥の中で、鳥伏間と鳥居棚についてご紹介しました。
今回は、酉年に便乗シリーズ第二弾!
鳶(とび)職人について☆
鳶職人の「鳶(とび)」も鳥の名前ですね☆

この名前の語源は、なんでしょう?
今回は三択クイズ!
1. 職人の作業する様子が「鳶」の飛んでいるように見えるから
2. 職人が使う道具が鳶の嘴(くちばし)に似ているから
3. 丁場(ちょうば)が訛って「とんび」と呼んだから
鳶職人とは、特に高所作業を得意とする職人です。
鳶職人と一口に行っても、専門によって様々な鳶職人がいます。

鳶(とび)と呼ばれるようになったのは江戸時代からです。「鳶の者」と呼ばれていました。
大きく分けると、野丁場(のちょうば)鳶と、町丁場(まちちょうば)鳶があります。
現在は、大規模な工事を行う現場を野丁場、小規模なものを町丁場と呼んだり、その組織体制の大小を表します。
元は、町丁場は、「町」という行政上の自治の管轄(町奉行)で、建築関連の仕事以外にも、町内の祭礼や年中行事など、地域の世話役的な役割を担っていました。
野丁場というのは、町丁場に対して後に出来た言葉で、江戸幕府により道路工事や河川整備などの天下普請によって、新たに出来た土地を指します。
自治「町」に対して、自治の管轄が未だ出来ていない土地を「野」と呼びました。
「野」で仕事をする又は、「野」の仕事をする鳶(とび)を野丁場鳶と指すようになりました。
ところで、江戸時代の鳶(とび)の大活躍といえば、「消火活動」です。
江戸時代の消火活動で主だったことは、火の燃え広がりを防ぐために、火元の建物や火が及びそうな建物を壊すこと。

町の勇士が集まって結成される「火消し」集団の中でも、鳶は重宝がられました。
建物の造りに詳しく、且つ屋根から屋根へ華麗に駆け巡ることが可能で、素早く解体できるからです。
鳶は、町のヒーロー的存在で、歌舞伎の演目にも取り上げられるほど、人々の関心の的になりました。
今でも、消防の出初式で、梯子登りなどが行われるのも、「火消し」といえば「鳶」という江戸時代からの名残ですね☆

そして、火消しを行う際に使用した道具が「鳶口(とびぐち)」という道具です。
先端に鉤(かぎ)の付いた長い鉄製の棒で、その鉤の部分が鳶の嘴(くちばし)に似ていることから「鳶口」と言います。
「鳶(口)を持つ者」「鳶(口)を使う者」というのが、鳶(とび)職人の語源になったんです。
ということで、正解は、2番です!(^^)!
高所の危険な作業も多い鳶職人。
今も昔も建築に欠かせない重要な存在です。
次回は、酉年に便乗☆家に関わる鳥たち特集 第三弾!シャチの祖先が鳥?! です。
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お読みいただき、有難うございます。
前回の記事では、十二支の酉と、鶏についてと、家に関わる鳥の中で、鳥伏間と鳥居棚についてご紹介しました。
今回は、酉年に便乗シリーズ第二弾!
鳶(とび)職人について☆
鳶職人の「鳶(とび)」も鳥の名前ですね☆

この名前の語源は、なんでしょう?
今回は三択クイズ!
1. 職人の作業する様子が「鳶」の飛んでいるように見えるから
2. 職人が使う道具が鳶の嘴(くちばし)に似ているから
3. 丁場(ちょうば)が訛って「とんび」と呼んだから
鳶職人とは、特に高所作業を得意とする職人です。
鳶職人と一口に行っても、専門によって様々な鳶職人がいます。

鳶(とび)と呼ばれるようになったのは江戸時代からです。「鳶の者」と呼ばれていました。
大きく分けると、野丁場(のちょうば)鳶と、町丁場(まちちょうば)鳶があります。
現在は、大規模な工事を行う現場を野丁場、小規模なものを町丁場と呼んだり、その組織体制の大小を表します。
元は、町丁場は、「町」という行政上の自治の管轄(町奉行)で、建築関連の仕事以外にも、町内の祭礼や年中行事など、地域の世話役的な役割を担っていました。
野丁場というのは、町丁場に対して後に出来た言葉で、江戸幕府により道路工事や河川整備などの天下普請によって、新たに出来た土地を指します。
自治「町」に対して、自治の管轄が未だ出来ていない土地を「野」と呼びました。
「野」で仕事をする又は、「野」の仕事をする鳶(とび)を野丁場鳶と指すようになりました。
ところで、江戸時代の鳶(とび)の大活躍といえば、「消火活動」です。
江戸時代の消火活動で主だったことは、火の燃え広がりを防ぐために、火元の建物や火が及びそうな建物を壊すこと。

町の勇士が集まって結成される「火消し」集団の中でも、鳶は重宝がられました。
建物の造りに詳しく、且つ屋根から屋根へ華麗に駆け巡ることが可能で、素早く解体できるからです。
鳶は、町のヒーロー的存在で、歌舞伎の演目にも取り上げられるほど、人々の関心の的になりました。
今でも、消防の出初式で、梯子登りなどが行われるのも、「火消し」といえば「鳶」という江戸時代からの名残ですね☆
そして、火消しを行う際に使用した道具が「鳶口(とびぐち)」という道具です。
先端に鉤(かぎ)の付いた長い鉄製の棒で、その鉤の部分が鳶の嘴(くちばし)に似ていることから「鳶口」と言います。
「鳶(口)を持つ者」「鳶(口)を使う者」というのが、鳶(とび)職人の語源になったんです。
ということで、正解は、2番です!(^^)!
高所の危険な作業も多い鳶職人。
今も昔も建築に欠かせない重要な存在です。
次回は、酉年に便乗☆家に関わる鳥たち特集 第三弾!シャチの祖先が鳥?! です。
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古民家再生と築40年以上の木造住宅改修・設計専門店
工事も頼める設計屋さん
㈲谷野設計
香川県さぬき市大川町富田西2911-1
0879-43-6807
info@tanino-sekkei.co.jp
2017年01月11日
酉年に便乗☆家に関わる鳥たち特集 第一弾!(酉?鶏?干支についてもちょこっと)
こんにちは☆
さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
昨日は、寒川町のお寺で、虹梁や蟇股に施された江戸時代の絵様について書きました☆
そういえば、今年に入り、直ぐに出会ったのは猿だったのですが、今年の干支の酉について書いてない(/ω\)
干支の酉ですが、起源からいうと、実は動物の鳥とは関係ありません。
古代中国で酉は、酒樽を意味して、お酒に関わる漢字です。
作物から酒を造る十の月(十番目)に酉(本来は「ゆう」と読む)をあてはめ、十二支を分かりやすく農民に知らせるために、動物を当てはめたと言われています。
因みに、この時当てはめた動物は、鶏(ニワトリの原種)です。
日本でも、ニワトリは神聖な鳥とされています。「古事記」では、「天の岩戸隠れ」で天照大御神が隠れて世界が闇に包まれた際、ニワトリが鳴いて天照大神を呼び出したとされています。
四国八十八か所札所にも、ニワトリに関わる逸話があるのですが、それはまたお寺の探訪の際に書きたいと思います☆
ということで、今回は酉年にちなんで家に関連した鳥をご紹介します☆
・鳥伏間(とりぶすま)
鳥衾とも書きます。

鬼瓦の上に突出した円筒形の瓦です。鬼がちょんまげしてる様にも見えます。
江戸中期の図解辞典『和漢三才図会』には、「鳥が常にここに休む」と書かれ、「鳥休み」とも呼ばれます。
・鳥居棚(とりいだな)
床脇に設けられる棚の種類の一つで、中央の棚が左右よりも高い位置にあるもののことを言います。
形が、神社の鳥居に似ていることからその名前が付きました。

中央の棚の両端に筆返し、左右に海老束、棚の地袋が備えてあります。(上の絵では、地袋を省略して描いています。
地袋のないものは、特に「西桜(せいろう)棚」と呼ばれます。
それっぽく撮った鳥居の写真が下です。・・・なんとな~く似てるような、似てないような・・・

因みに、神社の鳥居の語源とされるものは沢山あるのですが、その一つに、先述の「天の岩戸隠れ」でニワトリが停まった横木を鶏栖(とりい)と呼んだことからという説もあります。
酉年に便乗シリーズ(´▽`)
明日は、鳶職人(とびしょくにん)について紹介します☆
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さぬき市谷野設計の谷野です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
昨日は、寒川町のお寺で、虹梁や蟇股に施された江戸時代の絵様について書きました☆
そういえば、今年に入り、直ぐに出会ったのは猿だったのですが、今年の干支の酉について書いてない(/ω\)
干支の酉ですが、起源からいうと、実は動物の鳥とは関係ありません。
古代中国で酉は、酒樽を意味して、お酒に関わる漢字です。
作物から酒を造る十の月(十番目)に酉(本来は「ゆう」と読む)をあてはめ、十二支を分かりやすく農民に知らせるために、動物を当てはめたと言われています。
因みに、この時当てはめた動物は、鶏(ニワトリの原種)です。
日本でも、ニワトリは神聖な鳥とされています。「古事記」では、「天の岩戸隠れ」で天照大御神が隠れて世界が闇に包まれた際、ニワトリが鳴いて天照大神を呼び出したとされています。
四国八十八か所札所にも、ニワトリに関わる逸話があるのですが、それはまたお寺の探訪の際に書きたいと思います☆
ということで、今回は酉年にちなんで家に関連した鳥をご紹介します☆
・鳥伏間(とりぶすま)
鳥衾とも書きます。
鬼瓦の上に突出した円筒形の瓦です。鬼がちょんまげしてる様にも見えます。
江戸中期の図解辞典『和漢三才図会』には、「鳥が常にここに休む」と書かれ、「鳥休み」とも呼ばれます。
・鳥居棚(とりいだな)
床脇に設けられる棚の種類の一つで、中央の棚が左右よりも高い位置にあるもののことを言います。
形が、神社の鳥居に似ていることからその名前が付きました。
中央の棚の両端に筆返し、左右に海老束、棚の地袋が備えてあります。(上の絵では、地袋を省略して描いています。
地袋のないものは、特に「西桜(せいろう)棚」と呼ばれます。
それっぽく撮った鳥居の写真が下です。・・・なんとな~く似てるような、似てないような・・・
因みに、神社の鳥居の語源とされるものは沢山あるのですが、その一つに、先述の「天の岩戸隠れ」でニワトリが停まった横木を鶏栖(とりい)と呼んだことからという説もあります。
酉年に便乗シリーズ(´▽`)
明日は、鳶職人(とびしょくにん)について紹介します☆
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