2016年02月23日
三光神社―真田幸村縁の地
こんにちは☆
さぬき市の「古民家再生と築40年以上の木造専門」の
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谷野設計の学芸員・谷野友香です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
大阪のNNA株式会社というコンサルティング会社を経営されている戦国武将好きの佐藤先生のお勧めで三光神社を訪れました。
三光神社は、真田山にある神社で、元は姫山神社と言われていたそうです。全国的に真田山の三光の名称の方が有名になり三光神社と改めたとのこと。
創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至っているそうです。
大阪城の出城、真田丸が置かれたことで有名です。
階段を上がって、一つ目の鳥居を裏から見た様子。
神社に向かって右手には、もう一つの参道に沿って石灯篭が並んでいます。
反対側に目を向けると、「真田の抜穴」と言われる洞窟と幸村像がありました。
神社の由緒略歴によると
「大阪城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝えられ今なおその痕跡を三光宮鎮座の階下にあり」 (原文のまま)
と記されています。
その地下道の出入り口跡が、真田幸村像の左手に見える洞窟です。
毎度のことながら、つい熱中して覗き込んでしまい、肝心の洞窟のアップ写真を撮るのを忘れていました(/ω\)
洞窟内には入れないようになっていますが、11月のお祭りの際には扉が開かれます。
このような抜け穴が他にも数か所あったそうですが、子供の遊び場となって危険ということで埋められ、現在はこの三光神社のみが残っています。
さらに階段を上がると、社殿。
階段手前の狛犬。
社殿前の鳥居には、もう一つの鳥居の跡がありました。
亀腹(かめばら)とういう土台の石と石柱が残っています。これは、大阪大空襲の際に爆弾の直撃を受けた痕だそうです。
戦後新たに鳥居を造る際に、戦災の教訓を後世に伝えるという意味合いでそのまま残したそうです。
社殿は、平入拝殿の流造り。
屋根の棟と並行に入り口があり、庇部分まで屋根が伸びている構造です。
庇部分は緩やかな曲線の唐破風になっています。
唐破風が向拝によく用いられるのは、結界の意味があるためです。
社殿の手前の石畳に2か所他と色香違う部分が見えますね。
石柱など柱を建てる時の礎石の形跡のようです。ここにも鳥居があったのかもしれません。
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