2016年01月18日
島根県松江の城下町「塩見縄手(しおみなわて)と長屋門
こんにちは☆
さぬき市の「古民家再生と築40年以上の木造専門」の
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谷野設計の学芸員・谷野友香です(^^)
お読みいただき、有難うございます。
松江城の城下町の通り、塩見縄手(しおみなわて)。
初代出雲藩主「堀尾吉晴」が1607年(慶長12年)に、城地の亀田山と北側の赤山の中間にあった宇賀山を掘削して内堀と並行する道路や屋敷を造営して出来たのがこの塩見縄手という侍町通り。
縄手とは、縄のように一筋に伸びた道路のことで、塩見縄手には、二百石~六百石の中流武士の家中屋敷が並んでいたそうです。
塩見というのは、この通りに住んでいた塩見小兵衛が異例の栄進を遂げたため、それを称えてこの通りを塩見縄手と呼ぶようになりました。
その塩見小兵衛が一時住んでいた屋敷が、松江の文化財に指定されている「武家屋敷」です。
中流武士の屋敷は、本来武家屋敷ではなく、侍屋敷ですが、厳密に区別して使われることは無くなり、侍屋敷を武家屋敷と呼ぶことが多くなりました。
城下町の侍屋敷は領主から与えられる社宅のようなもので、地位が変われば屋敷換えが行われました。
現在の屋敷は、1733年(享保18年)の大火で焼失後に再建されたもので、約275年前の姿をほぼ保っているそうです。
明治には、漢学者「滝川亀太郎」が住んでいたそう。
入り口の長屋門(ながやもん)は、武士の屋敷の特徴の一つで、中間(ちゅうげん)という武家奉公人の住居としても使用されていました。
中間部分が門となっていて、左右に門番の部屋や仲間部屋・廁が設けられているのが一般的です。
諸大名が自分の屋敷の周囲に家臣などの為の長屋を建てて住まわせていたのを一部に門を開いて一棟としたのが長屋門の始まりで、江戸時代に多く建てられました。
こちらの長屋門は、昭和62年に改修工事がなされ、享保年間往時の姿に復元されたとのこと。
居室として使用されていた座敷には、古道具類が展示されていました。
行燈や提灯など、好きな人にはたまらない品だろうなあ~と眺めつつ、私はやっぱり建物の方が好物です(*^-^*)
小窓の部分は、スライドで開閉させるもの。木製のスライド窓、現在の住宅にあったらとってもオシャレだなあ~
雨戸にも、小窓?のようなものがありました。
門の道路側は、物見窓と呼ばれる窓があり、外部に対しての防備の一つとなっています。
次回は、屋敷内部に進みます☆
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